泉涌寺の塔頭・悲田院には、快慶作の宝冠阿弥陀如来坐像が客仏としてまつられます。このたび、特別公開の時期にあわせて参拝しました。
悲田院の御朱印
この日はご住職お留守とのことで、御本尊の御朱印のみ書置きでいただきました。
通常でしたら、泉山七福神めぐり・毘沙門天の御朱印もいただけると思います。
悲田院の見どころ
10月のある日、京都非公開文化財特別公開にあわせて、東山区周辺を参拝しました。
東福寺や泉涌寺をはじめ、さまざまな寺宝が公開される今回の企画。見仏好きのわたしがいちばん楽しみにしていたのが、悲田院です。こちらでは、快慶作の宝冠阿弥陀如来坐像にお目にかかれるとのこと。
◆京都非公開文化財特別公開~悲田院
— 朝日新聞社 寺社文化財みらいセンター (@asahi_jisha) October 15, 2020
本日から公開。
御朱印を求める人々が間隔を取って並ばれていました。
快慶作・宝冠阿弥陀如来坐像、土佐光起・光成親子筆の襖絵など。京都タワーと愛宕山の眺望も。~11/1(日)まで
↓取材動画もぜひ↓https://t.co/wZySGBaTMl#kyoto #特別公開 #文化財 #京都 pic.twitter.com/vqIw5FPAAc
上記のツイートと動画がよくまとまっていて、これを見ていただいたらもうわたしが書くことないんじゃ…と思いつつも、よろしければおつきあいください。
悲田院のはじまり
悲田院は真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の数ある塔頭のひとつです。
「悲田院」とは、身寄りのない老人や子供・貧しいひとを集めた福祉施設のこと。聖徳太子が造られたのがはじまりといいます。こちらの悲田院はその名前を受け継ぎ、延慶元年(1308)に無人如導によって安居院(上京区)に創建されました。
のちの室町時代には、後花園天皇が勅願寺とされました。天皇崩御の際には、悲田院で葬儀や荼毘が行なわれたそうです。
いまの場所には正保三年(1646)に高槻城主・永井直清によって移され、再興。寺には直清の像も伝わり、永井家とは深いかかわりがあったことがうかがえます。
高槻にある野見神社境内には、永井直清をまつる神社があります。以下の記事も、参考にどうぞ。
泉山七福神めぐり・毘沙門天
泉涌寺とその塔頭に参拝するには、JR・京阪の東福寺駅より東へ歩きます。住宅街に囲まれたゆるい坂道を上ると、10分ほどで御寺・泉涌寺の総門。門をくぐると空気は一転、木々が生い茂り、心地よい雰囲気の参道です。
総門より並ぶのは即成院、法音院、戒光寺、新善光寺、今熊野観音寺。そのまま進めば泉涌寺の大門ですが、悲田院へは右手側の小道を入ります。ほどなく、赤い門が見えてきました。
境内は見晴らしよく、京都の町が一望できます。よく見ると、京都タワーも確認できますね。
悲田院、建物正面には泉山七福神・毘沙門天をまつります。
除災招福のご利益があり、毎日おまいりされるかたもいらっしゃるとか。
内部は通常非公開。御朱印は右側の窓口でいただけるようです。特別公開時はここからお堂にあがり、参拝料を納めました。
それではまず、御本尊に参拝しましょう。
快慶作・宝冠阿弥陀如来坐像
本堂、仏殿の中央に御本尊・阿弥陀如来像をまつります。
むかって左側には、もうひとつの阿弥陀如来像が。こちらは印を結ぶ手が逆になっている、逆手の阿弥陀様です。少し遠くて確認しづらいですが、右手を下げ、左手を上げる来迎印のようです。あまり例を見ないかたちとのことで、わたしもはじめて拝見しました。
そして御本尊のむかって右側の端にいらっしゃるのが、お目当ての宝冠阿弥陀如来です。
高く結い上げた髻に、金の宝冠。すっと通った眉と鼻筋に半眼の目。両肩に袈裟をまとい、ゆったりと広がる衣文から出した手は、定印を結びます。背の高い台座、光背も大きく、赤と金の色があざやかです。
仏殿端に安置されますが、高貴な雰囲気もあり、存在感あります。
堂内は撮影禁止でしたので、表の看板の写真をご紹介。
本堂の部屋には、それぞれ襖絵があります。松に手の長い猿、竹に鶴…そのほか中国の言い伝えを表したような絵画など。こちらは土佐光起・光成親子、橋本関雪によって描かれたものとのことです。
場所によってはすぐ目の前で鑑賞でき、熱心に見ておられたかたもいらっしゃいました。
悲田院は大きなお寺ではありませんが、見ごたえのある寺宝がぎゅっと濃縮されていました。今度は通常時に、毘沙門天のおまいりに行きたいと思います。
あわせて行きたい 近くの寺社めぐり
悲田院の東には泉涌寺、周辺には塔頭寺院がならびます。このあと、わたしは駅に戻るルートで塔頭を参拝。あわせて御朱印もいただきました。後日、また記事をアップしますね。
基本情報
悲田院
所在地:京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
拝観時間:不明
公式サイト:https://www.mitera.org/(泉涌寺)